9条は日本人が発案した(説がある)が、その人は集団的自衛権を認めていた。

米大統領選の共和党候補者トランプ氏が公約で、日本の核保有を容認する姿勢であると報じられている。

イギリスやフランスみたいに海外に習ってもいいんじゃないかっていう意見もあり、理解はできる。

日本はアメリカの核の傘による抑止力の下にあるという現実の下では、非核三原則も事実上、体裁でしかないからだ。

持っていないように見えて、実は隠し持っているのが、今の日本なのだから。


結局、「最終的にアメリカが守ってくれるからいいや」という思考に完結している今、どうあってもアメリカへの基地提供は続けなければ日本の防衛策は手薄になる。その場しのぎの防衛のみで報復措置を取ることが出来ないというのは、侵略に対する抑止力としては絶対的に弱い。


ただし、実際に日本が核を持つというのは非現実的だろう。世界唯一の原爆投下された国として世界平和と核廃絶を叫んでいくために、自国で核兵器を保有しないことは、メッセージとして非常に重要だからだ。これを崩すことは、国際的な日本の立場を根底から揺るがしかねないし、持つべきではない。これについては現状維持の方が良い。


日本は今まで、抑止力の重要な部分をアメリカに頼ることで、「間接的に」解決し、「自国ではそれを保有していないから」というスタンスで、憲法とのつじつまを無理やり合わせてきた。

その現実下で生きているにも関わらず、、、今まで「憲法を守っている」という体裁を保っているだけだったという現状認識もせず、「憲法守れ」と叫んでばかりいるのは、もはや愚でしかない。


だが、アメリカに頼るのではなく、最後の最後は自国だけで自国を守るという結論に達してしまうのであれば、現実的に軍国化は避けられない。永世中立国のスイスと同様、徴兵制も復活する懸念がある。反安保の現実的対応策として、こちらを選択するのなら、反安保派の主張もある程度は筋が通っているが、そんな主張を是とする反安保派の人を見たことがないのは残念な所だ。


9条提唱者とされる説がある幣原喜重郎も、平野三郎の手記にあるように、集団的自衛権は世界平和のために必要であるという認識でいることが示されている。一切左翼主義者の間で、このような幣原氏の考え方の深い部分について触れられることはなく、憲法9条を発案したのは日本人だという話にただただ終始し、彼らは未だに9条の(過剰な)美化に勤め続けている。


(以下平野三郎氏記より抜粋 平野三郎の「しかし日本だけが(戦争を)やめても仕様がないのではありませんか。」との指摘に対する返答)

「世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。(中略)何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。(中略)すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。」



日本が集団的自衛権を認めるということは、世界平和のためのリーダーシップを取ろうとした幣原氏の考え方に即するものなのだ。


国連が存在し、国連憲章が集団的自衛権を普遍的権利として認め、各国がそれに準じ、各々に軍を持ちながらも国連軍として活動することが増えている現状は、当時の幣原氏が先見の明を持っていたことを示すとともに、残念ながら自身の発案した9条が、世界平和に対してリーダーシップを示すはずの自国の首を絞めているという皮肉も孕むものとなってしまった。


↓幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ー平野三郎氏記―↓

http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html


↓核の傘について↓

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/核抑止


↓百田尚樹氏の寄稿↓

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160601-00508854-shincho-soci&p=1