最近思うこと

 

俺、すんっごい日焼けしとる!!!

 

、、、、っていうどーでもいいことは置いといて。

 

最近ニュースやらツイッターやら見ながら思うこと。

 

「社会に鈍感力が足りない」

ということ。

 

あまりにいろんなことに神経質になりすぎてしまっている人が多いと感じる。

 

がれきの広域処理問題とか特に。

 

いろいろと試験に試験を重ねたデータも提示されているのに、いろいろとごたくを並べて批判・反対する人が依然として多いこと、多いこと。

 

しかも、その反対派の人たちが集会で述べた言葉がもう、短絡的すぎて。

「私たちは迷惑しているんです!!」

「被災地を救済する方法はほかにもあると思います!!」

 

迷惑している理由も根拠もなければ、なぜがれきを広域処理する必要があるのか、その背景を考えようともしていないことが明らかで。

 

単に強く強く、「目に見えない放射能が異常に怖い」という感情のみに突き動かされている、そんな印象を受ける。

 

確かに放射能は怖い。

 

ただ、それは日本が唯一、原爆という恐怖にさらされて、国民のほとんどにトラウマを与えたことや、原発事故によって自然界ではありえない量の放射性物質が拡散したことを、もともと神経質だった日本人の国民性が過剰に受け止めてしまったことが原因で、

 

そもそも放射性物質自体はそんなに怖いものではない。

 

むしろ、放射性物質のない世界では、私たちは生きていけない。

 

地球が地球として存在するのも、核反応を起こしながら自転する地球のコアがあるからで、それがなければ地球は太陽風という強い熱風によって死の星になってしまうし、

 

そもそも太陽なんて超ド級の巨大原発だし、

 

普段食べているニンジンやキャベツにだって放射性物質はごく普通に含まれてるし、

 

医師や看護師の年間許容被ばく量は20ミリシーベルト/年だし、

 

宇宙飛行士なんてその何倍もの放射線を浴びて活動しているし、

 

量がたいしたことなければ、まったく問題ないんだよね。

 

だからと言って、原発は大丈夫だとか言ってるわけじゃないけど。

原発は動かないのが一番。ココ大事。

 

 

でも、がれきの広域処理はまた別問題で、

その処理がなかなか進まない原因の根底にあるのが、

 

「放射性物質に対する異常なまでの恐れ」

 

なんだよね。

 

これがあると、いくら公費を削って精密に緻密に試験をしたところで、この「恐れ」が邪魔をして人を疑い深くさせる。異常なまでに。

 

っていうか、この試験費用って公費なんだよね。税金なんだよね。

反対派の人たち、自分で自分の首絞めてるって思わないのかな。

 

そしてさらに、この「恐れ」が、本当に困って助けを求めている、がれきの向こうにいる人たちのことを、真黒く塗りつぶして見えなくさせてしまう。

 

本当に正しいことが見えなくなる。

 

見なきゃいけないものを見えなくさせる。

 

 

ちょっと話がそれるけど、皆さんは手元にある「モノ」が、どのような人の手をたどって、どのくらいの手間がかかって、どれほどの思いや感情を乗せて自分の手元にやってきたのか、考えたことはありますか?

 

俺が初めてそれを考えたのは、大学2年生、初めて自分のバイト代をためて、「これだ!」と決めた自転車を手に入れた納車日でした。

 

たくさんの「職人」が、この1台を作り上げるためにどれだけの時間と労力を費やしたのか。どんなことを考えながら作ったのか。

 

自転車店の店員さんの技術の高さに、本当にこの店でよかったと心から思えた瞬間。

 

そして、そんな思いと時間の詰まった最高の「モノ」を、対等な対価を払って手にした喜び。

 

その感情を知ってから、スーパーの野菜にしろ、1つのノートにしろ、パソコンにしろ、手に取るものはなんでも、その「モノ」のたどった背景を考えるようになりました。

 

それはいつの間にかクセになり、たとえ自分が手にしたものではなくても、気になる物事の背景を想像してみるようになりました。

 

そういう風にしていると、重要なことが見えてくるんです。

 

ちょっと変な言い方かもしれないけど、

その「モノ」に込められた、製作者、販売者の苦労や情熱、心意気、そして「モノ」に対する愛情。

 

それは本当の「モノ」にしか存在しないんだけど、

本当の「モノ」に触れると見えるものなんです。

 

俺は、今回の震災で生まれたがれきも、本当の「モノ」だと思うんです。

 

そのがれきは、家だったかもしれない。

誰かの描いた絵や家族の写真を飾ってあった額縁かもしれない。

こどもの学習机だったかもしれない。

趣味の釣りのために大枚はたいて購入した船だったかもしれない。

歴史のあるお寺や神社だったかもしれない。

 

ただの木片だったはずがないがれき、それが元は何だったであろうと、大切にしていた持ち主が絶対にいたはずの、元「本当のモノ」だったがれきが、

 

嫌われて、たらいまわしにされる。

 

 

被災地の人たちにとって、そんな元「本当のモノ」が変わり果てた姿になり、それがあるために生活や仕事に支障をきたしているということ、それだけでも残酷で悲しい現実なのに、

 

それをただの「がれき」としかとらえられない一部の人々に、拒否される現実。

 

ニュースを見ているだけで、悲しくなります。

 

いわば、このがれきの広域処理は、様々な「本当のモノ」だったものを、天国へ送るための葬式なのだと思います。

 

大げさかもしれないけれど、本当にそう感じるんです。

 

だから、目に映るモノの背景を、皆さんも考えてみてください。

想像してみてください。

 

本当に大事なことは何か、

本当に自分がするべきことはなんなのか、

 

見えてくるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    申し訳ないが (木曜日, 25 4月 2013 02:57)

    申し訳ないが、うちの葬式で人が10人死んだので、お隣のお墓に
    1年入れといてくれないか?という話にしかきこえませんよ。

    ありえません。

    たとえば、奇跡の一本杉なる公共事業ができるのであれば、
    まずは自分のところで何とかする努力が必要なんじゃないかと
    思う。公費で試験して~というのも、これまで「原発は安全です」
    と言われてきた身としては、そんなのいくら試験したって
    本当かどうか信じられたもんじゃないよというのが本音のところ
    でしょう。

    私も海の近くに住んでいますが、津波が来て家が崩壊したとして
    それを誰かにどうにかしてもらおうとは思いません。

    自分が生きていくために、放射能まみれのものを売って
    誰かを巻き添えにしようともおもいません。

    東北の人は、矜持が足らないのではないですか?

  • #2

    Cirycle (木曜日, 25 4月 2013 08:55)

    まずはコメントありがとうございます。
    訂正を一つ。奇跡の一本松事業は公共事業ではありますが、費用はそのための寄付によって賄われるため、自治体は費用を支出しません。というか、その費用すら出せないのが、今の被害を受けた自治体の能力です。
    一本松を残すも残さないも、俺は現地の人間ではないので、考えてはいません。それは当事者の方たちの話し合いで決めてくれればいいと思います。

    それと、誤解があるようですが、俺は原発の再稼働のための試験どうこうについては述べていません。あくまで瓦礫処理における検査や試験と、それに対する国民の受け取り方の問題について述べています。

    3.11は、あなたの住む家一件だけが流された程度の話で済むものではないですよ?もはやその被害は国家クラスです。
    家も財も流されて、一部の人は家族も失い、虚無感に苛まれて明日の生活もどうなるか分からない人が何万人もいるのに、それを抱える自治体まで被害を受けて市民を支えきれない、そんな状態を考えたら、あなたみたいな発言は俺にはできません。
    失礼ですが、現実が見れてないことが丸わかりで、教養すら疑ってしまいます。同じ日本人とは思えない発言です。